昭和49年05月04日 朝の御理解



 御神訓 一、「神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じ事。」

 「神は我が本体の親」と云う説明は置いて「信心は親に孝行するも同じ事」と云う所を聞いて頂きたい「神はわが本体の親ぞ」と言うところは、皆さんやはり観念の上ででも判っておられると思うんですよね。天地金乃神様と云う事を、天地の親神様とこう申しておる位ですから、いわゆる親子の関係において、全てのみ教えが説かれてあります。所が果たして、「信心は親に孝行するも同じ事」と云う様な心の状態で、信心をしておる者がどの位おるだろうか。
 教祖様も矢張り初めの間は、信心がお好きであったとは言え、矢張り様々な難儀な事が次々と起きて来る。そう云う難儀な中から、おかげを受けたいと云う、ただ変わっておられたのは実意丁寧もう、この上ないと云う実意丁寧さを以て、神仏に向かわれたと云う事は違います。立教神伝にも「此方の様に実意丁寧神信心致しおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ」と仰っておられる。
 「お前の様に実意丁寧神信心を致しておる、そう云う氏子でなからなければ、難儀な氏子の取次ぎ助けは出来ん」と言っておられる訳ですね。あそこのところ「実意丁寧神信心致しおる氏子が世間になんぼうも難儀な氏子あり」、世間にも沢山やっぱり一生懸命信心しておる者もある。けれども助からない。と言うふうに頂いてはならんあそこはね。神様が、「お前の様に実意丁寧の神信心をする氏子であって初めて、取次の御用が出来るんだ。人が助かるんだ。
 お前の様に実意丁寧の神信心をする者がと言っておられます。言わばない命を助けて頂かれたり言うならば医者も見放す様な病気の中から、霊験を受けられての事であるからもう「死んだと思うて欲を放して」と云うお頼みを受けられたのが、あの立教神伝です。ですから私は厳密に言うと教祖様も矢張り、立教神伝を受けられてこちらが信心は親に孝行するも同じ事と言う事になられたのだと言う風に思うです。
 だからやっぱり皆さんも矢張りおかげ頂かんならんから、一生懸命お参りもするし修行もすると言う所から。神様の働きの間違いなさ、おかげの勿体なさと云う物をです。やっぱり受けられなければ、言わば、「親に孝行するも同じ事」と言った様な信心は出来ないと思うです。そこにはね、もうおかげと云う物とは全然切り離した世界です。信心は親に孝行するも同じ事です。親孝行する人がです。親が財産を持っとるとば目当てにして、もしなら親孝行様な真似をしておると言うならばです。
 それは私親孝行でないと思う。無条件でしょう。親孝行と云うのは無条件なんです。だから、実は、段々信心を頂いて、体験も頂いて、神様を信ずる力も出来て来たらです。何とかそこからですね。本気な信心に向かわなければならないということはね、いわゆる真の信心と言われるのはですね、神はわが本体の親だから、信心は親に孝行するも同じ事という見地に立っての信心でなからなければ、本当の信心の上達がないです。そしてそれは、やっぱり、言うなら、その第三者から見てです。
 一生懸命親孝行し様ごたるばってん、財産を目当てにしてから、一生懸命親を大事にしよると云うのでは、値打ちがないでしょう。けどそこ迄に至る迄がです。やはり相当のいわゆるそれも教祖様じゃないけれども、実意丁寧神信心を本気でさせてもらう。言うなら本気でお参りもする。本気で教えも行じさしてもらう。今月のあの「おかげの泉」の最後の所に「忙しくてお参りが出来ん。
 と言うのはね、お参りをしようと云う気が無いのだ。と云う事だ」とありますね「お参りしようと思い寄りましたばってんから、忙しゅうして」と言う。もうお参りしようと云う気が無いのだ。とその位に自分と云う物を決め付けて行かなきゃいけんです信心は。お参りしようと云う本当の気があったらです。どんな中にあってもお参りが出来ん事はないです。信心にはこう云う不退転の精神とでも申しましょうか。
 障害があったからそこで挫折するのではなくて、それを乗り越えるところに信心の姿勢があると、本気で信心するとはそう云う事だ。この頃から高橋さん、いろいろとお知らせを頂いて私が『進んで行っておる中に、酔っ払いが出てきて、そしてそれを邪魔をする』そう云う事があるぞと云うお知らせを頂いておる。二三日後から体の一部が痛んだり腫物が出来たり、もう身動きも出来ない様なもうずっと、だからもうあれで家に帰っとったらお参りが出来ん。
 だから二日間でしたか泊まり込まれた。それで奥さんを呼ばれて所が、あちらは今連休で大変繁盛しておりますから、沢山のお弁当やらが沢山注文が来ておるので忙しい。だからまた帰されて、それこそ自分一人で部屋でしんぎんしておられた。苦しんでおられた。是はもうお参りと云う事を絶対のものにして、誰が言うてもそれを「そこば押して参って来じゃこて」とは誰も言やしませんけれども、お参りする方の側がです。信心さして頂く者の側が、そうでなからにゃいけん。
 その時私は二人の人のお知らせを頂いた。一人の人はもうアッと言う間に失敗した。「孫が参らせんからちょっと頭が痛いから」と言うてお参りしない。ならそれは嘘ではないから、それでも「ああそうじゃったのう」としか言やしませんですはね。けれども信心を本当に頂こうと云う姿勢はそんな物からは生まれて参りません。是はお参りだけの事じゃないです。修行でもそうです例えばなら三時半に福岡から高橋さんやって見えられます。もしそれが四時の私の御祈念に間に合わなかったら。
 その日は断食すると言う位なですね。そう云う意欲を燃やして初めて信心本当の信心、いやそれも本当の信心と云う事ではないですけどもです。一つの信心の節度と云うか信心の姿勢と云う物はそう云う物でなからなけりゃいけない。そう云う事でしょう「お参りしようと思いよったけども忙しくてお参りが出来なかった」と言うのは、それはねお参りをすると云う気が無いんだと。そこまで自分の信心を決め付けてかかる。
 そう云う生き方がです「親に孝行するも同じ事」となった時に、是は素晴らしい事だと思う。ね。そう云う信心が「どうでも此処ん所の願いが成就しなければならんから、おかげを受けなければならんから」と言うのは、例えそう云う様な人の真似の出来ん様な信心をさして頂いてもです。それは、おかげは受けましても、大した事はないと思うですね。ですからそう云う一生懸命のものが、言うならば「親に孝行するも同じ事」と云う精神に基付いて、その信心修行がなされた時にです。
 是は本当に大した事になって来るだろうとこう思うです。今丁度教祖様の「実意丁寧神信心致しおる氏子が」と天地の親神様がそう言っておられるが、今高橋さんなんかそこを通っておられる所じゃないでしょうか。まぁいっ刻しよったら、神様の神頼みがあるかもしれん。「あんたの様に実意丁寧一生懸命信心する者が、一つもうおかげの事なんか眼中におかずに、本当に合楽教会大発展の為に、それこそ御用してくれないか」と言う様な神頼みを受けられる様な時が来るかもしれない。
 ならその時にどう言う事になるかと言うと、教祖様はそれから不幸せになられたか不幸になられたかと言うと、そうではなくて愈々益々御神徳輝くばかりの御神徳を受けられて、天地の親神様からも、いわゆる「天地金乃神と同根」とまで言われる様な御神徳にお進みになられた。昨日から松栄会の方達が、入殿修行をさせて頂いております。今朝その事をお私願いさせて貰いよりましたら『もう大きな富士山です。富士山の絵を頂いてです、下に山が幾らもなからにゃいけませんよね、富士山は。
 山が下の方にあってちょうど波の様にしたとこ』を頂いた。私の小学校の時の歌にありましたよ。「富士は日本一の山」。何時も雲の上に姿を現わしておる。沢山な山をそれこそ従えておる。本当に気高い富士の偉容と申しますかね、そう云うお知らせを頂いて、例えなら私がいかに日本一の富士の山になってもです。それに伴う所のです私は信者・氏子しかも「信心は親に孝行するも同じ事」と言う様な信心を目指しての信者が出来ない限り、その富士山は自分だけが日本一と言うとるだけで。
 だあれも日本一と言うてくれません。格好の悪い富士山と云う事になります。ですから折角なら、昨日今日と二日間に渡っての信心修行させてもらうのですから、それがおかげを頂かんならんからと例え一日でも二日でもです「親に孝行するも同じ事」と云う様な本当の、真の信心のそれに立脚しての信心になられる事を、私は願います。もう店の事も家の事も、家庭の事も自分が感じておる難儀の事も、一様は置いてたーだ只管に真の信心を目指さして頂く為の入殿であらなければならないと云う事。
 そしてそう云う信心修行がこんなにもすがすがしくて、有難いものだと云う事を体験する時です。その一日でない二日ではない、それからの信心の姿勢と云う物が変わって来る位なおかげを頂かなければ、入殿の値打ちはないと思う。入殿しておる時だけがそれであってはならない。どんなに親孝行の様な形を取っておっても、日参り夜参り例えよしさせて頂いておっても、親から持っておる物をもらわんなんから、親孝行しておると云うのはそりゃもう親孝行じゃない。
 親孝行と云うのは無条件の物でなからなきゃならない。ただ親が喜ぶ事でさえあればと云う、一念に燃えての信心を私は、「親に孝行するも同じ事」と易う信心とはそう云う信心だと思う。親と子の関係言うなら大天地に対する小天地。大自然に対する小自然。親神に対する氏子・信者と。その訳は色々に説かれておりますから、皆さんも成程なるほど親様だなあ、親神様だなあと思われるおかげを受けておられるから、そこの説明は今日は致しませんでした。
 「信心は親の孝行するも同じ事」と云う信心を身につけて行きたい。自分のこう云う思い方こう云う行動こう云う行ない、是が神様のお喜びを頂く事の為ならば、改まりもしょう研きも致しましょう、御用もさせて頂きましょうと云う事になる。昨日、田主丸教会の御大祭で若先生があちらへ参りました。その後行ったら総子がおりましたから、「お父ちゃんは」と言ったら「御用」ちゅう。何時の間にあげな事覚えたじゃろうかと思うた。御用ちゅう、「父ちゃんは、何処な」「御用」ちゅう。
 だから金光様の御信心はです。その御用と云う事を総子が言う様な意味で、御用御用と言いよる様な感じがするです。まるきり取手の役員のごたるその御用がです。親が喜ぶから親が安心してくれるから、そう云う私は見地に立っての御用でなからなきゃならん。おかげば頂かんならんから御用と言うのもちょっとおかしい。ただ「御用さして頂きます。御用さして頂きます」と。
 それこそ総子が言う御用の様な御用ではです。もう慣れっこになった御用、果たして例えば五つの願いの中にありますよね、真実本当の御用が出来ます様に。その御用の内容と云うのは、言うならば仕事仕事と云う事は、その事に仕えると言う事だと云う内容になっておるか、いくら儲からんならんからと云うのではなくて、いくら給料もろとるからそれだけ働けばいいと言った様な物じゃなくて。
 もうその事に仕えるのが仕事なんです。そう云う私は内容を持っての信心が、だんだん垢抜けして来ると申しますか、自分の御用さして頂いておる事、自分が働かして頂いておる事が、本当に傍が楽になって行く事の為の、働きになっておるかどうか。ただ自分さえ良から良いと云う働きであったら、それは本当の働きにはならないのだ。「信心は親に孝行するも同じ事」
 「御用は神様に喜んでもらう親孝行と同じ事」と云う事もだから言える訳です。だから、その御用の内容がです。例えば修行であったら、御用になりません。何かが一つ欠けておる。それに一つプラス致しますとです。それが本当の御用になるのです。自分の働いておるそれにちょっと思い方が変わって来る。「信心は親に孝行するも同じ事」そう云う信心即親孝行と云う様な信心を、愈々身に付けて行きたいと思いますね。
   どうぞ。